天台宗東叡山寛永寺について
江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。
天海が明智光秀だったという番組が先日放送されていましたが、かなり真実味がありました。
天海の構想力と実行力は目を見張るものがあります。
上野の中に京の都を見て取ることができる、といわれているように、東の比叡山を意味する山号から「東叡山」、延暦寺の「延暦」というのは平安時代初頭、
桓武天皇の時代に使われた元号であり、寛永寺の「寛永」は、江戸時代の後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇の時代の元号であり、江戸幕府将軍は徳川家光であった。
「比叡山 延暦寺」にならって「東叡山 寛永寺」命名</span></span>されたものです。
上野公園が寛永寺の境内だった
上野公園は元々はほぼ全体が寛永寺の境内でした。その当時の様子を以下で説明しています。
上野公園には以下の天海僧正毛髪塔があります。
<h3>天海僧正毛髪塔</h3>
(てんかい、天文5年(1536年)? – 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧、大僧正。尊号は南光坊(なんこうぼう)、院号は智楽院(ちらくいん)、諡号は慈眼大師(じげんだいし)。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
両大師|東叡山 輪王寺(別称:開山堂・両大師)について
出典:開山堂ホームページ
開山堂は、東叡山寛永寺の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正と、天海大僧正が尊崇していた慈恵大師(じえだいし)良源(りょうげん)大僧正をお祀りするお堂で、現在のお堂は平成5(1993)年に再建されたものです。
もともとの創建は正保元(1644)年で、前年に亡くなられた天海大僧正を祀る「開山堂(かいさんどう)」でしたが、後に寛永寺本坊内にあった慈恵堂(じえどう)から慈恵大師像を移し、慈恵・慈眼のお二人のお大師をお祀りしたことから一般に“両大師(りょうだいし)”と呼ばれ、庶民に信仰されています。
御朱印
豪快な文字です。
東京で唯一の門跡寺院を示す文言が書かれています。
後水尾天皇の第3皇子、守澄法親王が東叡山主の座、天台座主ともなられて、輪王寺宮の称号が勅賜されました。
御朱印には、「上野 輪王山門跡」と書かれています。
見どころツアー
両大師の文字が書かれた山門正面から見たところ
山門に掲げられた、「開山堂」の文字
角(つの)大師は、両大師のうちのおひとり、慈恵大師・良源のことで、かたどった護符には「角大師」のほかに、「豆大師」「厄除け大師」など、様々あり、
いずれも魔除けの護符です。コロナ退散のためのアマビエの護符などが流行っていたのと同じく、いつの世でも人智を超えた苦難のときにはおすがりしたいと考えるものです。
以下、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
- 角大師と呼ばれる図像には、2本の角を持ち骨と皮とに痩せさらばえた夜叉像を表したものと、眉毛が角のように伸びたものの2つのタイプがある。
- 『元三大師縁起』などの伝説によると、良源が夜叉の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。
- 角大師の像は魔除けの護符として毎年正月に売り出され、比叡山の麓の坂本や京都の民家で貼られた。
阿弥陀堂。両大師のご本尊は、阿弥陀如来。
両大師のご本堂
鐘楼
文豪、幸田露伴の旧邸宅の門を移築したものだそうです。
説明書きに記載のように、「五重塔」の主人公が現在の寛永寺の根本中堂を手掛けた大工の棟梁をモデルにした物語、とのことでここに移築されたようです。
両大師と、下に写真のある、輪王殿との間の通り道にあります。
輪王殿は、寛永寺の信徒さんの会館です。
アクセス
住所 : 東京都台東区上野公園14-5
電話 : 03-3821-4050
JR 山ノ手線・京浜東北線/上野・鶯谷両駅 徒歩5分
地図