東京 江東区

佐賀稲荷神社|地元に愛され守られてきた小社

2021-08-14

東京都江東区の隅田川近くに鎮座する佐賀稲荷神社。地元の人のための神社さんです。

 

赤穂浪士休息の地

「赤穂義士休息の地( 東京都墨田区両国1丁目9−10)」碑より

赤穂四十七士の1人、大高 源吾(おおたか げんご、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、子葉という雅号を持ち、俳諧にも事績を残した。

ちくま味噌初代、竹口作兵衛とは宝井 其角(たからい きかく)の門下として、俳諧の友でありました。

元禄十五年十二月十四日討ち入り本懐を遂げた義士たちが永代橋へさしかかるやあたかも当所乳熊屋みそ店の上棟の日に当り作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労をねぎらったのであります。大高 源吾は、泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。

 

御祭神

宇迦之御魂命

 

詳細は以下の内容をご確認ください。

 

 

御朱印はございません。

 

 

「佐賀稲荷と佐賀町(平成八年春)」からの抜粋

江戸時代初期の深川は、小島の点在する遠浅の海であったが、寛永六年(1629)永代島付近の埋め立て許可を得て、次郎兵衛・藤左衛門他6人のものによって漁師町八ケ町が出来上がり 上之橋の次郎兵衛町 中の橋より南を藤左衛門町とした。

元禄八年(1695)検知の際、次郎兵衛町、藤左衛門町を合併して佐賀町と改めた。町名は地形が肥前国(佐賀長崎)佐賀湊に似ていたことにちなむと云われる。

干潟を埋め 町造りの基礎を固め、漁村から海上運送の起点として繁栄をたどる。

調理の両側は各地の産物を集めた各種の問屋の暖簾(のれん)がはためき、川筋には倉庫が建ち並び、もやった大小の船の間を忙しく立ち働く人々の声が終日行き交った。

先人相諮り、佐賀町に住む人々の除厄招福を願い永世鎮護の祠(ほこら)を穿ち(うがち)佐賀稲荷神社の額を掲げた。時に、寛永七年(1630)祭神は生成発展を司る稲の霊で有るところの 宇迦之御魂命である。

明治以降は、正米市場がたち、米問屋が集い、当社は商売繁盛の稲荷として栄えた。倉庫業に携わる人々の余技として生まれ伝承された深川の力持ちは、まさに、佐賀町の特性を活かした伝統技能である。

境内には力持技芸者の奉納した力石、明治初期に米問屋で出来た米仲間が寄進した鉄製の天水桶が現存している。

 

漁村から 海上運送の起点とし繁栄をしていくという軌跡をたどります。当時の江戸の町では他のも同様の状況が生まれていたものと思います。

また、埋め立てで新たな町を作ることで土地を広げ経済活動を拡大させていくきっかけになっていることは町造りの歴史として興味深い現象です。

 

アクセス

東京都江東区佐賀2丁目4−8

 

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