大田区 東京

東八幡神社・十寄神社|矢口渡駅周辺の御朱印巡り(その2)

2021-08-12

東八幡神社・十寄神社|矢口渡駅周辺の御朱印巡り(その2)

多摩川諏訪神社から東八幡神社、十寄神社へ

多摩川諏訪神社での参拝・御朱印拝受を済ませて移動した先が、東八幡神社、さらに、十寄神社。「とよせ」と読むそうです

どちらの神社も德持神社さんの兼務社でいらっしゃいます。

 

東八幡神社 ご祭神とご由緒

誉田別命

八幡神で、応神天皇のことです。以下に以前の投稿をリンクしましたので詳細をご覧ください。

(古い参拝ですので写真が見当たらず、東八幡神社の写真はここには添付しておりません)

 

 

矢口の古市町会地区の鎮守さまです。ご創建は建長2年(1250)と伝えられています。江戸期には湯坂八幡神社と呼ばれていました。もとは村内に西八幡神社(領家八幡宮)がありましたが、明治44年(1911)当社に合祀して東八幡神社と称するようになりました。現在のご社殿は昭和47年(1971)2月に竣功されたものです。

(德持神社のHP記載事項)

 

十寄神社 ご祭神

新田義興命(にったよしおきのみこと)

世良田右馬助義周命(せらたうまのすけよしちかのみこと)

井伊弾正左衛門直秀命(いいだんじょうざえもんなおひでのみこと)

大嶋周防守義遠命(おおしますおうのかみよしとおのみこと)

由良兵庫助命(ゆらひょうごのすけのみこと)

由良新左衛門命(ゆらしんざえもんのみこと)

新藤孫六左衛門命(しんどうまごろくざえもんのみこと)

堺壱岐権守命(さかいいきごんのかみのみこと)

土肥三郎左衛門命(どひさぶろうざえもんのみこと)

南瀬口六郎命(なせぐちろくろうのみこと)

市河五郎命(いちかわごろうのみこと)

新田 義興(にった よしおき)

南北朝時代の武将で、新田義貞の次男。

足利尊氏が没した半年後の1358年義興は尊氏が亡くなったことを好機として捉え、鎌倉を奪還するために挙兵し、鎌倉に向ってた。

これに対し尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏らは、義興謀殺の機会を狙ったが果すことはできず、せず、江戸遠江守とその甥などのチカラを借りて、10月10日、義興と主従13人を、多摩川の矢口の渡しで謀殺した。義興は享年28歳でした。

後に、義興の怨霊により狂死したため、現地の住民が義興の霊を慰めるために新田神社に、神として祭ったのり、後に新田大明神として尊崇されるようになった。

ご由緒

南北朝争乱期の正平13年(1358)10月、矢口の渡しで謀殺された南朝方の武将、新田義興公(新田義貞公の次男)と、その死を共にした氏族および近習の将兵十柱の御霊(みたま)をお祀りしています。初めに十寄神社を参拝してから新田神社へお詣りすると願い事がかなうと云われ、江戸期には大いに栄えました。現在のご社殿は昭和55年(1980)10月に竣功されたものです。(德持神社のHP記載事項)

御祭神の人数と参拝順序について

「巻之二 天璇之部 十騎社」『江戸名所図会』一、斎藤長秋、有朋堂書店の項目に十騎社(じっきのやしろ)との記載があり、8人の名前が分かっているとのこと。

他の文献に数名の名前が記載されているということでした。

太平記に記載されているのは、義興と主従13人ということですので、「十」とは合わないのは何故かと思っていました。

さすが昔のこと名前が定かではないため、御祭神としては明確に名前のあがっている十の御柱を寄せて祀ったことであることがわかりました

「初めに十寄神社を参拝してから新田神社へお詣りする」(家臣の方々に挨拶してお目通りを依頼してから、義興公のもとに参拝するのが礼儀であるからという理由だそうです)という順番にしました。

 

 

御朱印

 

 

東八幡神社・十寄神社|矢口渡駅周辺の御朱印巡り(その2)

 

 

 

アクセス

東八幡神社

東京都大田区矢口3-17-3

矢口渡駅より徒歩12分

 

十寄神社

東京都大田区矢口2-17-28

矢口渡駅より徒歩10分

御朱印巡りをしたルート

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1
 中華soba いそべ 

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2
 多摩川 諏訪神社 

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3
 東八幡神社← その(2)

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4
 十寄神社← その(2)

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5
 氷川神社

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6
 新田神社

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7
 久が原東部八幡神社

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8
 德持神社

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