江戸時代初期から上野戦争まで
江戸時代初期は、津軽・藤堂・堀家のお屋敷でした。
元和8年(1622)の暮、二代将軍秀忠は、尊敬していた天海大僧正のために一寺を建立することを決めました。
場所は、上野の山の17万坪の地に五万両と高輪御殿を添えて天海僧正に寄進しました。
しかし、翌年の7月には、将軍が三代の家光代わられたため、実際に寺の創建に当たったのは家光ということになりました。
寛永2(1625)に三代将軍・徳川家光が江戸城の鬼門である丑寅(北東)の方角を封じるためにこの地に建立することになり、高輪御殿が移転できたのが1625年だったので、この年に寛永寺が建立されたことになっています。(寛永2年の元号から「寛永」と命名されています)
現在も広大な土地の寛永寺は場所を少し代えて存在します。
平安時代に、桓武天皇の帰依を受けた天台宗の最澄上人(さいちょうしょうにん)が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならったものです。
そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。
第三代以降、寛永寺の来歴代山主を皇室から迎えることになり、朝廷より山主に対して輪王寺宮(りんのうじのみや)の称号が下賜(かし)されました。
上野戦争について
1868年7月4日、戊辰戦争の局地戦闘の1つ。江戸上野において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦い。
午前7時には開戦し、彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近、彰義隊の墓付近)から応射した。西郷が指揮していた「黒門口」からの攻撃が防備を破ると
彰義隊は寛永寺本堂へ退却する。
団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走(新政府軍はわざと逃げ道を残していたと云われている)した。
以下は現在の上野公園の一部になります。
赤点線で囲った3箇所が以降の3枚の「江戸名所図会」から抜きだしてきた、江戸時代のまだ寛永寺が上野の山一帯を所有していたときのもので、当時の場所が現在の場所と、どのような位置関係になっているのかを説明するものです。
1.黒門
上地図の一番下にある、「黒門跡」が当時の寛永寺の「総門」である「黒門」のあった場所になります。
上述のように上野戦争のときに最もと激しい戦闘が行われたところでした。
現在この本物の黒門は、荒川区の円通寺に移設されており、当時の銃撃戦の銃弾の跡が無数に残っているそうです。
「江戸名所図会」から、「黒門」。左上の方はいまは彰義隊のお墓があるところです。
2.清水観音堂
上の地図の2つ目の赤点線丸で囲った部分は、いつもの東京あるあるの、上野戦争はもとより、関東大震災や東京大空襲にも耐えた、清水観音堂である。
「江戸名所図会」から、「清水観音堂」近辺。当然のことですが、外観の様子も現在と同じです。江戸時代から上野は桜の名所だったことが想像できる記述がありました。
3.根本中堂
現在の上野公園のちょうど噴水のところが以前の寛永寺根本中堂でした。今は何もない広場になっていますが、JR上野駅から上野動物園に向かう大きな道の部分に、キレイな朱色の
お堂がたっていて、その間を橋でつないでいる構造になっています。人々は参道を歩いてきて、この常行堂と法華堂の間の橋のしたを通って、
根本中道に向かっていました
根本中堂跡
寛永寺は芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇ったが、戊辰戦争の局地戦といえる、上野戦争で、寛永寺に立てこもった旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲壊滅したため、伽藍は焼失し、一帯は焼け野原と化した。
ボードウィン博士像
1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医アントニウス・ボードウィンが、血が流れた場所は西洋では公園にすることが多いことから、上野も公園として残すよう日本政府に働きかけた。
その結果1873年に日本初の公園に指定された。ボードウィンはこの経緯によって、上野公園生みの親と称されている。