学問の神様になるまでのステップ
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1 学者の家系から文人へ
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2 律令制度下の国家試験への合格によって政治家へ
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3 醍醐天皇のときの55歳で右大臣へ
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4 政治や学閥の暗闘の中で藤原時平の讒言で太宰府に左遷、2年後没。道真の祀廟を建立
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5 都での天変地異、藤原時平の病死(39歳)
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6 930年の宮廷紫宸殿への落雷(道真が雷神と結びつく)で死傷者、醍醐天皇の崩御
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7 道真の怨霊の怒りを鎮めるために北野天満宮創祀
ポイント
人から神へ
(徳川家康や豊臣秀吉をあげるまでもなく、日本では実在の人間が「神」になります。
人の死は私達は、穢(けが)れと捉えてきました。
この穢れが清まるまでの期間を経て、(33年とか50年とか言われます)「弔(とむら)い上げ」を済ませた「ほとけ」は「神」になります。祖霊崇拝といわれるような
考え方が日本人の根本には存在していることが理由だと思います)
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8 怨霊として受け取られる事件の収束
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9 平安時代末期から鎌倉時代の『天神縁起』。慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神として信仰
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10 江戸時代以降は、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として寺子屋などで盛んに信仰
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11 天神様に縁日への参拝が恒例となり、現在の学問向上・受験合格祈願の契機になった
メモ
北野天満宮では、毎月25日に道真の縁日として境内で骨董市が開かれる。これは、道真の誕生日、大宰府に流された日、死んだ日が全て25日だったことに由来する
太宰府天満宮と北野天満宮について
太宰府天満宮は、905年道真が死去した太宰府の地に創建された。
北野天満宮は、947年に創建された。
この2社は、それぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではなく、北野天満宮では「総本社」、太宰府天満宮では「総本宮」と呼称し、「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。
両社の分社は1万社を超えている。
菅原道真の略歴
すがわら の みちざね
菅原道真 |
承和12年(845年)6月25日 生まれ 延喜3年(903年)癸亥2月25日没。享年59歳 従二位・右大臣。 贈正一位・太政大臣 書道で三聖の一人。(空海・菅原道真・小野道風) |
貞観 4年(862年) | 式部省試及第、文章生(18歳) |
元慶 元年(877年) | 文章博士(33歳) |
仁和 2年(886年) | 讃岐守赴任(42歳) 宇多天皇即位 |
寛平 2年(890年) | 帰京 |
寛平 3年(891年) | 式部少輔。左京大夫。兼・左中弁(47歳) |
同 6年(894年) | 遣唐使派遣中止を進言。兼・侍従(50歳) |
同 7年(895年) | 兼・近江守。従三位、中納言。兼・春宮権大夫(51歳) |
延喜 元年(901年) | 従二位(57歳)大宰権帥に左遷 |
同 3年(903年) | 大宰府にて没(59歳) |
同 5年(905年) | 味酒安行、菅原道真の祠廟を建立(現在の太宰府天満宮地) 長男高視以下、許されて本官に復す。 |
同 9年(909年) | 藤原時平、39歳にて没。(道真へのでっちあげの告げ口で道真を左遷させた張本人) |
同13年(913年) | 長男菅原高視、38歳没。 |
同19年(919年) | 藤原仲平(時平の弟)の奉行により味酒安行建立の廟の上に社(現在の太宰府天満宮)を造営。 |
同23年(923年) | 四月、道真は右大臣に復され、正二位を追贈。左遷詔書を焼却。天変地異、疫病等を理由に延長と改元。 |
延長 8年(930年) | 清涼殿落雷事件。醍醐天皇崩御。 |
天慶 5年(942年) | 多治比文子に託宣。道真公を祀る(現在の文子天満宮) |
天暦 元年(947年) | 近江比良宮の太郎丸にも託宣。 多治比文子らと共に協力し北野の地に道真公の祠を移す。(現在の北野天満宮) 道真孫・僧平忠、安楽寺(現在の太宰府天満宮)別当。 |
永延 元年(987年) | 一条天皇が北野天満宮にて勅祭(天皇が命じた特使による祭祀)を行い、天満宮天神の神号を賜る。 |
同 3年(992年) | 安楽寺、天満天神の託宣を注進。 |
正暦 4年(993年) | 5月、正一位・左大臣を追贈。 閏10月、太政大臣を追贈。 勅使菅原幹正、安楽寺に下向。 |